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伝統食品教室

江戸情緒を楽しむ「蒲焼き」

  • 原田 信男先生(国士舘大学21世紀アジア学部教授)
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  • 野﨑 洋光先生(和食料理人)
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原田 信男(はらだ・のぶを)さん 原田 信男(はらだ・のぶを)さん
国士舘大学21世紀アジア学部教授。専攻は日本文化論・日本生活文化史。1949年栃木県生まれ。『江戸の料理史』(中公新書)で1989年にサントリー学芸賞受賞。『歴史のなかの米と肉』(平凡社選書)で1993年に小泉八雲賞を受賞。そのほかにも日本の食に関する多数の著書がある。
野﨑 洋光(のざき・ひろみつ)さん 野﨑 洋光(のざき・ひろみつ)さん
1953年福島県生まれ。武蔵野栄養専門学校卒業。1980年「とく山」の料理長を経て、1989年「分とく山」を開店し、2023年12月まで総料理長を務める。和食の技と素材の味を活かした家庭料理のレシピで定評がある。 著書に、『なぜ? からはじめる かんたん和食』など多数。

江戸期には現代のスタイルが完成したと言われる「うなぎの蒲焼き」。蒲焼きは江戸期の食の革新と語る原田さんには文献を基にした歴史を、コクのあるタレや香ばしさを料理に生かすなど発想の転換が必要と語る野﨑さんにはリッチなアレンジレシピを聞きました。

江戸時代に花開いた日本料理

私たちが普段食べている料理のなかには、江戸時代にその形が完成したものが多いことが文献からわかります。握り寿司、そば、天ぷら、そして今回の「うなぎの蒲焼き」も江戸時代に発展・完成し、庶民の間で人気を博したメニューです。その背景には、庶民層までもが「料理や食を楽しむ」という風潮や飲食の条件が社会的に浸透したことがあげられます。

また、近海や河川で捕れる豊富な魚介類を、米を原料とした発酵調味料(味噌、醤油、酢、みりんなど)で味つけするという手法がその時代に発展しました。「うなぎの蒲焼き」でいえば、うなぎを開いて内臓と骨を取り去り、醤油とみりんで作ったタレで香ばしく焼き上げるという方法は、江戸時代に完成したものです。

それでは、日本でうなぎがどのように食べられてきたのか、文献をもとに見ていきましょう。

うなぎの蒲焼き丼

古くから食されてきたうなぎ

縄文時代からうなぎは食されていましたが、文献上で初めて出てくるのは『万葉集』(奈良時代)。大伴家持の「石麻呂に吾物申す夏痩せに吉しと云う物ぞむなぎ取り食せ」という和歌です。夏やせの石麻呂に対して、からだに良いから「むなぎ(うなぎ)」を食えとすすめています。奈良〜平安時代まで、うなぎは「むなぎ」と呼ばれており、その語源は胸の色によるもの。「胸黄」とも記されていました。

また、室町時代の料理書『包丁聞書』(ほうちょうききがき)には「宇治丸といふはうなぎのすし也」とあります。宇治丸とは京都の宇治川で捕れたうなぎで、当時、すし(熟鮓(なれずし))にして食べていたことがわかります。その後「宇治丸」はうなぎ全般を指す言葉となります。

丸のままから、開いて短冊状に

では、いつから「蒲焼き」にして食べるようになったのか。これには諸説ありますが、おそらく室町末期にはあったと考えられます。

「蒲焼き」の語源は、焼く姿が「蒲」すなわちガマの穂の形に似ていることから来ていますが、室町末期のことを記したと思われる『大草家料理書』には、「宇治丸かばやき事、丸にあぶりて後に切る也」とあり、蒲焼きが登場します。この頃の蒲焼きは、うなぎを開かずにガマの穂のように丸のまま串に刺して焼いていたようです。

今日のように、うなぎを開いて短冊状にして焼くスタイルになったのは、おそらく安土桃山時代。江戸中期の百科事典『和漢三才図会』には「かば焼」として、割いて内臓を除き、串に刺して横に4、5段とし……、といった記述があります。

うなぎのお重

江戸期に蒲焼きブーム到来

今のようなうなぎの蒲焼きが広まったのは江戸後期のこと。関東(千葉・流山)でみりんの生産が増え、蒲焼きのタレとして使われだしたのが大きな要因です。醤油と混ざったみりんの甘みが江戸庶民を魅了し、この頃に蒲焼きの店も増加しました。

江戸後期の国学者、斎藤彦摩呂の随筆『傍廂』(かたびさし)の「かまぼこ かばやき」の項に「(蒲鉾つまり竹輪と同様に昔は)蒲焼きもうなぎの口より尾まで、竹串を通して塩焼きにしたるなり……今、背より開きて、竹串さしたるなれば……蒲の穂には似もつかず、名義を失へれど、味は無双の美味となれり、これはいにしへにも遙にまされり、わきてこの大江戸なるを極上品とせり」と記されています。

彦摩呂の記した通り、うなぎの蒲焼きはまさに「この世に勝る美味はなし」と言えるでしょう。

うなぎの蒲焼きを売る店

うなぎの蒲焼きを売る店。裂くのが夫で、焼き方は女房。看板に「瀬田前」とあるが、これは近江国瀬田のこと。歌川広重『浄瑠璃町繁華の図』より(国立国会図書館蔵)

土用の丑の日はうなぎの日?

昔からうなぎは“薬”として食され、夏やせに良く、精力のつく食べものだと広く知られていました。食べものの効能などを網羅した元禄10年(1697年)刊の『本朝食鑑』には、うなぎの効能として「陽を起こす」、つまり性的能力を高める、とあります。そのことから、もっとも体力を消耗する盛夏の「土用の(うし)の日」にうなぎを食する風習が広まったと考えられます。これが平賀源内の説だという話は確たる証拠のあることではありません。

同様に、江戸と京阪とでは蒲焼きの裂き方が異なり、江戸では背開きに、京阪では腹開きにします。この違いについても「武士と商人」説というのがあります。しかし、これも確たる証拠のある話ではなく、江戸の背開きはうなぎを蒸すための手法と考えるほうが現実的でしょう。

江戸前うなぎの蒲焼きの店

江戸前うなぎの蒲焼きの店。うちわを持ったおかみさんが「うちはすべて江戸前です」とお客さんに答えている。鍬形蕙斎『職人尽絵詞』より(国立国会図書館蔵)

蒲焼きは食のイノベーター

「蒲焼き」といえば当然うなぎのことですが、「江戸前」という言葉も、はじまりは隅田川で捕れたうなぎのことを指す言葉とされています。つまりブランド名。江戸時代の浮世絵にも、うなぎ屋の看板に「江戸前 大蒲焼」と書かれています。

また、お店で蒲焼きは酒の肴として提供されていました。その後、酒の飲めない人のために「つけめし」といって、蒲焼きと一緒に白飯も出すように。さらに蒲焼きが冷めないようにと、丼の白飯の上や中にうなぎを入れた「うなぎ飯」が登場します。これが日本における「丼もの」のはじまりと言われます。

さらに江戸時代の風俗書『守貞謾稿』によると、うなぎの脂のついた木箸は洗っても汚れがなかなか落ちません。そこで料理店で初めて、使い切りの割り箸(引き裂き箸)を使うようになったと言われています。

『守貞謾稿』にあるうなぎ飯の絵

『守貞謾稿』にある、うなぎ飯の絵。朝顔型の丼に熱飯を少し入れ、うなぎをのせ、また熱飯を入れ、その上にうなぎをのせると書いてある。(国立国会図書館蔵)

このように、今日では当たり前のようなことも「蒲焼き」が生まれたからこその「食の革新」といえるのです。

当時、屋台そばの10倍近くの料金だった「うなぎの蒲焼き」。ちょっとぜいたくをして食べたくなるのは今も昔も変わりません。私もうなぎは大好物。都内の老舗はもちろん、全国各地を調査・講演旅行する際、うなぎ屋を見つけると無性に入りたくなり、時間が許せば、うなぎを堪能しています。

和食料理人 野﨑洋光の蒲焼きレシピ

うなぎの蒲焼きのレシピは、うな丼・うざく・う巻きだけではありませんよ。甘辛のコクのあるタレや香ばしさを料理に生かすなど、発想の転換が必要ですね。1枚の蒲焼きを切って活用すれば、ちらし寿司の具材はもちろん、カナッペなどのパーティーメニューにも、ちょっとリッチなおかずができます。

野﨑流「蒲焼き活用術」三カ条

  1. 蒲焼きのコクは、辛みのあるさわやかな野菜と相性抜群。
  2. 蒲焼の香ばしさを生かすためには、短時間の加熱を心がける。
  3. 蒲焼きを楽しむコツとして、江戸の料理の風情をたしなむ。