鍋教室
世界の鍋
- 株式会社紀文食品
写真家、ジャーナリスト。大正大学客員教授。1955年熊本県生まれ。東南アジアを中心に世界中で取材活動を行う。カレーの漫画『華麗なる食卓』(集英社)の監修なども。著書に『食べているのは生きものだ』(福音館書店)、『食べもの記』(福音館書店)、『カレーライスと日本人』(講談社学術文庫)、『干したから……』(フレーベル館)など、食にまつわる著書、写真絵本など多数。
「鍋」は日本のみならず、中国・台湾・韓国・タイなどのアジア地域はもちろん、ヨーロッパやアフリカなどにもあり世界中で食されている料理です。「鍋を囲む」という楽しみ方を人類はみいだし、「温かい食を共有する実感」を得られるからこそ、鍋は発展し愛すべきメニューとして存在しているのではと森枝さんは語ります。
鍋 世界地図
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フォクオ(火鍋)
(中国) -
サーコー(砂鍋)
(中国) -
チゲ
(韓国) -
プルコギ
(韓国) -
タイスキ
(タイ) -
トムヤムクン
(タイ) -
スチームボート
(マレーシア) -
カタプラーナ
(ポルトガル) -
タジン鍋
(モロッコ) -
ギャコック
(チベット) -
フォンデュ
(スイス)
世界の鍋を求めて
文・写真:森枝卓士
鍋の魅力
たとえば、サンドイッチやお握り。手に持ってほおばると、箸やフォークとナイフでの普段の食事と違う、何かがあるように感じませんか。指先で感じる、食べものの実感とでもいうべきもの。素直な食の喜び。
鍋ものには、それと通じるところがあるのかもしれない。そんなことを思いました。
家族や親しい人々と焚き火を囲んで、暖を取りつつその火で煮たり焼いたりしたものを食べる。ヒトが火を使うように進化していく原初のイメージでしょう。
それがやがて、台所と食事をする空間が分離していくわけです。ちょうど、素手で掴んでいた食べものを、箸やフォークで口に運ぶようになったように。そして、各人の一人分の料理を供するようになる。
しかし、小さな火を食卓に持ち込んだり出来るようになり、「鍋を囲む」というような楽しみ方を人は見出したのではないか。温かい食を共有する実感。それが鍋では?
中国 / 台湾
日本の一般的な箸より、中国のそれは長い。何故か?もともと各自のお膳で食事をしていた日本と、大きなテーブルに共有する料理を置き、手を伸ばして取り合ってという違いです。
だから、日本以上に鍋を一緒に囲むということに馴染みがあるにように思われます。ただ、鍋はどうしても、正式な晩餐のような会よりも、カジュアルな場という感じでしょうか。気心の知れた友人たちとつつくイメージ。
台北で友人が連れて行ってくれた、隠れ家のような薬膳の店。そこで、アヒルを1羽豪快に煮た、姿のままに登場する鍋が。もとより、お箸で触ると崩れるくらいに火が通っているのですが。薬膳らしい風味に胃の腑まで落ち着くような味わいでした。
そうそう、素食と呼ぶ精進料理の店の鍋の淡味もよろしかった。グルテンミートや干し椎茸が肉代わりの味わいになっているというもの。逆に、麻辣火鍋(マァラァフオグオ)。あのラー油が鍋の表面を覆っている四川の辛い鍋も……。
韓国
農村の稲刈りの時期。農村を歩いていると、昼ご飯の用意が。家から持ってきたお弁当のご飯とキムチ、そして、焚き火の上にはチゲの鍋。その温かい鍋を囲めば、ご飯など冷たくても大丈夫(場合によってはそのチゲにご飯をいれて……)。その昔、そんな情景をよく見かけたものでした。なるほど、このようなところから、鍋というものが育っていったのかとも思ったものでした。
この韓国も、鍋といえるような料理の多いところです。各種のキムチやナムルの皿が並ぶ中心に、コンロ、鍋が置かれてという状況を何度目にしたことか。そんな食事になったことか。家庭でもそのようにして食べますし、料理屋でもそのようなものが多々。印象深かったものも多々ありますけど、一つあげるとフグの鍋か。海鮮の鍋の専門店にいったら、一つだけ頭抜けて高いものが。何かと聞くとフグの鍋だと。試してみると、確かにむっちりとしたフグの肉。でも、たっぷりのコチュジャンで、微妙な差が分からない。もったいないと思ったり、それが文化かと思ったり。
タイ
日本でももはや有名なトムヤム。レモングラスや柑橘等々とたっぷりの唐辛子で、酸っぱくて辛いスープですけれど、あれも、ふつうの食事で器で登場したら、ただのスープです。料理のコースの中のスープ。しかし、真ん中に穴が開いていて、そこに炭を入れるあの独特の鍋に入って、シーフードの専門店などで登場すると、とたんに鍋ものになってしまいます。冷房の効いた中で、熱々の鍋。食卓の主役。
このお仲間にはクンというエビだけでなく、様々なシーフードを入れるもの、あるいは鶏肉をココナツミルクで煮込んだ(でもほのかに酸味がある)ものなどなど。酸っぱくて辛いという路線だけでなく、あの鍋を使うと、様々なスープが脇役から主役になるようにも思われます。豆腐に春雨のスープも、牛や豚の内臓たっぷりのスープも。
そういえば、今では日本でもすっかり有名になったスーキーもありますね。タイの鍋と言えば代表格の。これはもう鍋だけで完結する世界。〆も麺類を入れてって、ご存じですよね。華僑からもたらされたものが、ナムプラなどタイ風のアレンジで出来上がった世界。まさに鍋の広がり、進行形……。
ベトナム
東南アジアでも一番、鍋という料理が目立つのがこの国だと思われます。お箸の世界だから。たとえば、タイなど麺類であったり、タイスキであったりはお箸ですけれど、一般的にはフォークとスプーンです。つまり、東南アジアで最も中国文明の影響が強いところがベトナムであり、それゆえもあって、お箸で鍋を一緒に突くという料理も多いと(やはり、箸というものも、鍋の文化に大きな関係を持っているようにも思われます)。
ともあれ。スープの類でも、タイ同様に炭を真ん中の穴の部分にいれて温める類の鍋があり、同じように外食の場では登場します。トムヤムに相当する、酸っぱい具沢山スープの鍋がカインチュウア。こちらはパイナップルやタマリンドで酸味をつけます。
タイスキに近い感じのものとか多々ありますが、思い出深く、ユニークだと思われるのはハノイのチャーカー。雷魚の肉片を葱等と炒めて食べ、最後には素麺のような米の麺ブンでしめる。汁気のあまりない鍋といえば、すき焼きもそう?
ミャンマー
ベトナムやタイあたりと比べると、比較的少ないように思われるのがミャンマーですが、ここでは非常に印象深い、まさに鍋というべきものがあります。
市場の片隅の麺類の店などスナック的なものが並んでいるあたり、あるいは、人が集まるところ。たとえば、最大の大都市、ヤンゴンの公園、インヤ湖で夕涼みに人々が集まる、そんなところで目にします。大木鍋が中央に。それに串がびっしりと。ちょうど、静岡などの串差しのおでんのように見えましたけど、それが、全部、豚の内臓でした。様々な部位を下処理して串に刺したものをしょうゆのような味わいのだしで煮たものでした。ウェタードウトウッといいます。これを客は囲むように座り(何故か、必ず、低めの椅子で)、思い思いにつまむ。まるで、おでんの鍋。あるいはおでんと焼き鳥の合体のような感じなのです。残念なのは、何故か、お酒が供されないことですけど、カップルなど仲良くつついています。鍋の情景。
モロッコ
アジアから西に向かって、鍋らしきものといえば、スイスのフォンデューが圧倒的に有名ですね。フランス、マルセイユあたりのブイヤベースや、あるいはスペインのパエリアなども、鍋もの的なイメージがありますけど、食卓で供する際は普通の料理のように、皿に盛りつけますから、やっぱり、違うように思えます。
それよりも、このヨーロッパに近いところで、鍋のようだなと思ったのが、モロッコのタジンでした。最近では日本でも馴染みになってきた、あの富士山のような形状の蓋がついた鍋であります。サハラ砂漠にほど近い、乾燥地帯の農家を訪ねた折り、お昼に登場したのがタジンでした。食卓の真ん中にタジン鍋。そして、適当に割ったパン。お皿もなく、各々、鍋の中の鶏肉や野菜をひとつまみにしたパンに挟んだりして食べる。
同じものを食べている、鍋を囲んでいるという感覚を一番感じたのがこの食事だったのです。鍋とは同じものを食べているという実感か。