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年とり魚の変遷と正月の食文化

魚をめったに口にすることができなかった日常

国立民族学博物館の調査報告には、高度経済成長期以前の日常の食生活の実態が、食事内容からも記録されています。なかでも、多くの人が、季節ごとの多少の違いはあっても、ほとんど毎回同じような食事だったと証言していることも注目されます。

日常の食事は、飯(多くが麦やダイコン、雑穀などを混ぜ込んだ「かて飯」)に一汁一菜が基本で、肉はおろか、魚さえも、海岸に近い漁村地域や流通網が発達した都市部などを除いては、ほとんど食することがないのが一般的だったようです。

現在のような冷蔵・冷凍設備や輸送手段が発達する以前、魚は多くが保存のきく塩物や干物などに加工され、行商人が徒歩もしくは自転車で日帰りできる範囲内で運搬されました。その40~50km圏内の外では、塩干物でさえもめったに口にすることはできませんでした。

魚を尊び供する正月

にもかかわらず、一方で正月や祭りなどの特別な日となると、たとえ山間部の村であっても、魚、しかも海の魚を膳に加えるという習慣を伝えているのは興味深いところです。

たとえば、信州の伊那谷や飯田のあたりでは、年とり魚として現在でも鰤を食べますが、これはかつて、富山県の氷見で水揚げされた鰤が、高山、松本を経て半月ほどかけて運ばれてきたものでした。高山の日枝神社には、越中の肴屋衆が奉納した寛文5(1665)年の絵馬が残されていて、すでに江戸時代の初期には飛騨方面への鰤の運搬が行われていたことがわかります6。鰤は、西日本における年とり魚の代表格ともいえる魚です。フォッサマグナを境に、東日本では鮭が年とり魚の代表格として知られていますが、信州はその境界線上に位置していて、地域や家によって鮭と鰤の文化圏が混在しているのです。

塩鰤を1本丸ごと買った家では、大晦日に一家の主人がまず鰤の尾を切り、家の神棚に供えます。その後、切り分けたものを焼いて食べ、年を越しました。家によっては、鰤箱という箱を用意しておき、節分のころまで大事に食べたというところもあるほどでした7

正月の神棚に飾られた「懸けの魚」(千葉県館山市相浜の漁師宅)

このように、運ばれてきた年とりの魚は、まず神前に供えられることが重視されていました。鰤や鮭に限らず、海産物を歳神様に供える習慣は、「懸けの魚」として、地域によっては現在でも行われています。これは、魚、スルメ、数の子、昆布、鰹節などを、家の神棚の前に並べて下げ、歳神様に供えるものです。下げるものは地域によってさまざまで、農村ならば稲穂を供えるところもあり、また扇子や傘などの縁起物を下げるところもあります。

正月の食文化 -節日のまなくい-

柳田国男

民俗学者の柳田国男は『食物と心臓』(1940年)の中で、正月や祭りなどの節日にわざわざ海の魚を用いる習慣が各地でみられることについて、「この日を精進にせぬ大きな力が、備わっていたことが想像せられる」8と興味深い指摘を行っています。柳田によれば、イワイとは本来、「忌む」ことに通じる言葉で、厳粛な禁戒と解放の歓喜の両方の意味を有していました。そして、イワイの場では、禁戒すなわち精進を終えて自由な祝賀へと移行するうえで、「まなくい(魚食い)」の儀式が必須だったのではないかというのです。そうでなければ、「正月だから嫁迎えだから、必ず海から捕ったものを食べねばならぬと、無理算段までするようになった」ことに説明がつかないと述べています9

同じく民俗学者の瀬川清子も、柳田の問題意識をさらに掘り下げて、「東日本の正月肴の塩鮭も、西日本の塩鰤も、紀文大尽の蜜柑船に優るとも劣らない困難な行程をへて運ばれているのであるが、そうしてまでも節の日に魚を食わなければならない、という理由を考えてみる必要がなかろうか。こうした節日の魚食は、身体的栄養というよりは、むしろ、この吉日に魚を食わなければならない、という精神的栄養に属するものであろう・・・(中略)・・・節日のまなぐいは、もっともっと古い時代からの国風で、さし鯖や塩鮭が運ばれない古い時代にものし鮑や海藻などが、節供の魚の役をはたしていたもののようである」10と述べています。

古代の律令制の時代、日本の各地から、鮑や鰹、鮭、鯛などが、都に向けて貢納されていました。これらは、もちろん輸送に耐えるだけの保存処理が施されていたことはいうまでもありませんが、食料としてよりもむしろ、神まつりの際の供物として欠かすことのできない食材でした。

今日でも、のしあわびや鰹節は、神饌や結納品などの祝い事に用いられますし、鮭は正月用の贈答品として、鯛は祭りを始めとするさまざまな祝い事の場面で供されることが多いことを考えると、こうした古代からの習慣や価値観が、現代になっても継承されていると考えることができるのです。

魚食の移り変わりと現在の姿

国立民族学博物館の報告書に掲載されていた、前述の大阪府八尾市の女性(大正2 (1913)年生まれ)は、「昔を思うと、今は毎日が正月だ」と言っています。魚料理や刺身などは正月くらいしか口にすることはなかったのに、それを日常的に食べることができるようになったことを、そう表現しているのです。

ただし、江戸時代でも、江戸や大坂などの大都市に限っては、規模の大きな魚市場と各地からの鮮魚輸送のネットワークにより、比較的身近な食材として魚を入手することが可能でした。

かつて特別な日の特別な食べ物だった魚は、高度経済成長期を経て、海から遠く離れた地であっても手軽に手に入れることができる、もっとも身近な食材のひとつとなりました。それはひとえに、鮮魚の保存技術と輸送手段が発達したからに他なりませんが、魚が日常的に食されるようになったとはいっても、魚に付随するこうした階層性は、現在でもその魚を食する場面に深く関係しています。そこで以下では、現代の豊かな食文化の中で、わたしたちが正月という一年の節目において、どのような魚を選んで食しているのか、紀文食品による調査結果をもとに、地域ごとの特性も含めて考えてみたいと思います。

6. 松本市立博物館編『鰤のきた道』オフィスエム、2002年、p.30
7. 松本市立博物館編、前掲書、p.92
8. 柳田国男『柳田国男全集17』ちくま文庫、1990年、p.470
9. 柳田国男、前掲書、p.471
10. 瀬川清子『販女』未来社、1971年、p.46