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お正月のいわれ

お正月のいわれ
お正月のいわれ文庫

日本人のしきたりと正月

飯倉晴武先生は、長年にわたり、宮内庁書陵部において皇室関係の文書や資料などの管理と編修を行う首席研究官として務められました。日本の公式な伝統行事研究の第一人者で、ベストセラー「日本人のしきたり」の編著者でもある先生に、「正月」のしきたりについてお聞きしました。

日本人のしきたりと正月 作家 飯倉晴武

作家 飯倉晴武(いいくら はるたけ)

1年の節目として、日本人は正月をとても大切にしてきました。正月に各家に降臨するとされる年神様にその年の幸運を授けてもらうため、さまざまな習慣が生まれ定着しました。飯倉先生へのインタビューで今も伝わる正月行事のルーツを紐解きます。

年神様とおせち料理について −門松、正月飾り−

もう一度話が年神様に戻りますが、門松やしめ飾りなど、年神様にまつわるものの意味を教えていただけますか。
門松というのは年神様を迎える印です。ここがわが家の正門ですよ、入口ですよという印でもあります。正月飾りも年神様をお迎えするための飾りです。お客様を迎えるには、特別なものを作って用意をするということです。
準備ができていますよという合図なのですね。「一夜飾り」はいけないというのはなぜですか。
それは普段から余裕をもってやりなさいという教えです。前の晩に急いでやることを、「一夜飾り」といって嫌います。“九”が苦しみに通じるという理由で、29日もいけないといいます。だから28日の末広がりの日がよいでしょう。昔からそういうことを教わっている人は、正月飾りやしめ縄などは28日に買いに行って、その日に飾るようにします。それが間に合わなければ29日はダメだから30日に飾ります。31日は一夜飾りになってしまいますから。だから28日までに飾り終えているのが一番いいのです。
他に年神様に関係あるものといえば何がありますか。
神棚に家の年神様を祭るのですから、元旦はおせち料理を少しずつ入れてお供えします。田舎に行くと小さいお膳があって、ちょこちょこと入れて神棚にあげたりします。それから屋敷神というのがあります。庭があれば小さい祠が飾ってあって、普段はお稲荷様がいたりするのですが、そこにもおせち料理を一人前差し上げます。そして、この家を守ってくださいとお祈りします。

年神様とおせち料理について −おせち料理−

おせち料理は神様にお供えした後に下ろして、家族で食べるのですね。
それは、神様と一緒に食べる「共食」のなごりです。おせち料理をその日のうちに下ろせばいいのですが、今は神棚にあげておくと、2〜3日あげて、もう捨てるようになってしまいますね。 昔は元旦に上げて、すぐに下ろしてみんなで食べたのです。
神人共食というのが祈りにつながるのでしょうか。
食事を神様と一緒にすることによって、こちらの気持ちが神様に通じてほしいという願いが込められているのです。 天皇の即位式の大嘗祭は、天皇の先祖の神様と一緒に食事をして天皇になる資格を得るのだといわれています。神道の中には、神様と一緒に食事をする、神と共食といわれていますが、これが非常に大事な考えの一つになっています。だから料理を作る時も、神様にも差し上げるのだという気持ちを込めて作るのです。
おせち料理が一般に広がったのはいつ頃ですか。宮中ではずっと節句料理としてあったと思うのですが。
奈良時代から正月とか3月の節句とか、いわゆる節句と名がつく時には、天皇が文武百官、今でいう公務員、役人を大極殿に集めてお祝いをしますが、その時に食事も与えられます。でも、それはあまり料理がなく、ご飯が高盛りになっているものでした。役人は、そこではちょっとだけ口に入れて、家に持って帰って家族の食事にしたといわれています。つまり、料理というよりは、高盛りにしたお米、ご飯が与えられるのです。
武家社会になると、おせち料理はどんな感じになるのでしょうか。
武家社会も同じです。特に武家は戦場に行く前に、高盛りにしたご飯を食べていくわけです。それこそ「腹が減っては戦ができぬ」ですから。日本人は結局お米なのです。お米が主食であり、料理でもあり、ご馳走でもあるのです。
最初のおせち料理というのは宮中でも武家でもお米なのですね。お米は節句の時などにまず食べる、大事なものだったのですね。副食物が出てくるのはだいぶ後になってからですか。
そうです。ただ、魚は鯉が尊ばれていました。昔はお櫃の中に料理を入れて運ぶのですが、中に鯉が丸ごと入っているということがありました。鯉というものは「鯉の滝登り」というように、昔から縁起のよい魚だといわれています。
鯉のあと、江戸時代になると鯛が珍重されますね。鯛も姿形がいいからですか。
そうですね。
また昆布やアワビが正月飾りに使われたり、鏡餅の上にもたくさん飾られたりしていますね。やはり海のものとか山のものとか、そういう決まり事があるのですか。
やはり山海のご馳走ということで、山のものと海のものと両方使っています。
一般庶民におせち料理が広まったのはいつ頃でしょうか。
料理ができるようになった江戸時代からです。種類もたくさん作らせるということは、少しはお金持ちでないとできないので、江戸時代の商人たちがだんだんと経済的にゆとりを持ってきてからです。だから、おせち料理は江戸時代の町人の姿を描いた文学にやっと出てくるくらいで、江戸時代元禄以降の町人文化の一つです。
その時になって初めて、雑煮が普通の長屋の家族でも食べられるようになったのですね。
そうです。そして味付けは塩が中心です。神様に差し上げる時も、生食と料理した食事と2つあるのですが、生食の場合は塩も一緒にお供えします。 伊勢神宮に行くと、三角形のおにぎりの形の荒塩がたくさんあります。伊勢神宮は特別に塩を自分のところで作って、神様に捧げています。昔から、塩は料理に使うだけでなく、神様に捧げる食材として大切にされていました。 その塩よりもさらに大切なのが米です。それも脱穀した白米と、まだモミがついたもの、両方ですね。それとお酒です。
それもお米の加工品ですね。
そうです。それから餅です。餅は長持ちしますしね。魚は海魚と川魚があります。鶏も野鳥と水鳥があります。野菜では海の野菜である昆布と畑の野菜があります。そして菓子です。栗や果物など自然にできるものを昔は菓子といいました。それと塩と水を一緒に捧げます。塩と水というものはお米と一緒で必ずつきもので、忘れてはならないものです。
今伺ったものは全部自然のもので、本当に自然に感謝する意味も込めてお供えされたのですね。

飯倉晴武(いいくら はるたけ)

1933年東京生まれ。東北大学大学院修士課程修了。宮内庁書陵部首席研究官、同陵墓調査官等を歴任。 奥羽大学文学部教授、日本大学文理学部等講師を経て、現在は著述に専念 。 著書に『日本古文書学提要』上・下刊(共著、大原新生社)、『天皇文書の読み方、調べ方』(雄山閣出版)、『古文書入門ハンドブック』(吉川弘文館)、『地獄を二度も見た天皇-光厳院』(吉川弘文館)、「日本人のしきたり」(青春出版社)、「日本人 数のしきたり」(青春出版社)等、多数。