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お正月のいわれ

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お正月のいわれ文庫

日本人のしきたりと正月

飯倉晴武先生は、長年にわたり、宮内庁書陵部において皇室関係の文書や資料などの管理と編修を行う首席研究官として務められました。日本の公式な伝統行事研究の第一人者で、ベストセラー「日本人のしきたり」の編著者でもある先生に、「正月」のしきたりについてお聞きしました。

日本人のしきたりと正月 作家 飯倉晴武

作家 飯倉晴武(いいくら はるたけ)

1年の節目として、日本人は正月をとても大切にしてきました。正月に各家に降臨するとされる年神様にその年の幸運を授けてもらうため、さまざまな習慣が生まれ定着しました。飯倉先生へのインタビューで今も伝わる正月行事のルーツを紐解きます。

正月行事の本来の意味・意義について −正月はハレの行事−

正月には、家族で行う行事もたくさんありますね。
特に、明治以降からその傾向が顕著になりました。新年は家族が全員揃う時で、改まって挨拶をし、新年を迎えます。そして、そこにも年神様をお迎えする気持ちがあります。宮中などでは神様を本当にお祭りしていますが、一般の家でも正月は、神社に初詣に行く前に、家の中の神棚に、家長をはじめ家族が揃って拝礼します。家の中の神棚と初詣は、同じように見えて別なのです。
まずは家の神様をお迎えして、感謝をし、お祈りをして、それから家族揃って地元の神社とかに行くということですね。
そうです。日本人というのは、年が改まると何もかも改めたくなるもので、衣服も新年になって全部変えるという考え方がありました。僕が子どもの頃は、目が覚めると枕元に新しい洋服が置いてあって、新しい洋服を着るのは正月からでした。そして、地元の神社を参拝し、家族揃って食事をし、それから子どもはお年玉をもらいました。お年玉というのも年神様からの贈り物ですね。そして、子どもの遊戯などが行われます。
すごろく、かるたとり、羽根つきなどの正月遊びですね。
そうです。そして奥さんは、元旦は料理も掃除もしない、ゆったりしているわけです。掃除をすると、福も一緒に掃き出してしまうということで、元旦は掃除をしないものです。正月というのはハレの日ですから、その日は普段と違うことをしてもかまいません。子どもにとっては叱られない楽しい日でもあります。これから一年間の苦労を乗り越えていくためのエネルギーを蓄えていくのが元旦の行事です。

正月行事の本来の意味・意義について −屠蘇、鏡餅、食材の歴史−

正月ならではの習慣にもいろいろありますね。「屠蘇(とそ)」は神事と関係あるのでしょうか。
屠蘇は、本物を飲めばわかりますが、漢方薬です。「正月の三が日は、天皇に薬酒を献ず」というのが資料の中にあり、食事の前の行事として出てきます。それが一般に広がって、屠蘇になります。屠蘇というのは古くから飲んでいた薬の酒で、新しい年の健康を願って飲むものです。
厄払いとかの意味もあるのでしょうか。
それもあるでしょうね。
鏡餅はいつ頃からどのように広まっていったのでしょうか。
資料には、鏡餅は鎌倉時代から出てきます。二段重ねで鏡のようにキラキラしているので、鏡餅といわれており、神様に捧げるために特別に作った餅のことです。いつまでも置いておくわけではなく、10日とか15日に「鏡割」を行います。これは特に室町時代になると幕府の行事としてはっきり資料に出てきます。
そうすると、宮中の行事でもあり、幕府の行事としても行われていたということですか。
鏡餅や鏡割は、武家との関わり合いが大きいようです。公家や天皇も餅を食べていたのでしょうが、一般的だったことはあまり資料には残されていません。
では、お正月にどういうものを食べていたのでしょうか。
(資料を提示しながら)これは室町幕府の将軍から時の天皇のお父さんへ、正月の食べ物として献上されたものです。鳥が多いですね。

(資料)「看聞御記」伏見宮貞成親王の日記

◎永享四・正・二
(旧年卅日夜被進)室町殿より鵠一、雁五、鶉卅、鯛卅、海老一折 上様より南御方へ、鵠一、雁五、雉十番、海老一籠、蠣二籠
◎永享五・正・五
(除夜ニ被進)室町殿上様より菱喰二、雁五、雉十番、鯛廿、海老一折 南御方へも同被進(目六同前)
◎永享六・正・二
室町殿上様より菱食二、雁五、雉十番、鯛廿、海老一折 南御方へ菱食二、雁五、鳥十番、鯛廿、貝蚫一折
◎永享七・正・四
〈除夜被進〉 公方上様より美物給、菱食二、雁五、鳥十番、鯛廿、貝蚫一折 正・四 自公方鵠一、捶十賜之
お正月のいわれ
日付は正月2日ですか。
大晦日くらいから献上されているのですが、ご当主に披露されるのが、正月2日くらいだったようです。「室町殿」は将軍で、「上様」が将軍の奥様です。 将軍の奥様より「菱喰(美味しいもの)」を賜った。「菱喰二、雁五、雉十番、鯛廿、海老一折、南御方(頭首の正室)へ菱喰二、雁五、鳥十番、鯛廿、貝蚫(あわび)一折」。 こういったものが将軍家から送られてきます。名目は将軍の奥方からで、こういったことは内々といいますか、奥方から奥方へという形がよかったのでしょう。このようなものが正月用に送られてくるということで、正月はこういうものを料理して食べていたということが明らかになるのです。
室町幕府から宮中におせち料理の材料が献上されていたということですね。
そうです。資料を紹介しますと、鳥を串に差して、火であぶっています。日本人は鶏を早くから食べていました。この絵が描かれたのは室町時代ですが、鎌倉時代のことを描いています。
その頃から鳥などがおせち料理に使われていたということでしょうか。
料理の絵が登場する資料があまり残っていないのです。酒盛りの場面の絵を見ても、たいした料理は出ていません。果物とか、焼いた鮎を持っていますが、昔の人の食生活はちょっと貧しいです。料理の古文書などが出るのが江戸時代なので、食文化が花開いたのは江戸時代からですね。

飯倉晴武(いいくら はるたけ)

1933年東京生まれ。東北大学大学院修士課程修了。宮内庁書陵部首席研究官、同陵墓調査官等を歴任。 奥羽大学文学部教授、日本大学文理学部等講師を経て、現在は著述に専念 。 著書に『日本古文書学提要』上・下刊(共著、大原新生社)、『天皇文書の読み方、調べ方』(雄山閣出版)、『古文書入門ハンドブック』(吉川弘文館)、『地獄を二度も見た天皇-光厳院』(吉川弘文館)、「日本人のしきたり」(青春出版社)、「日本人 数のしきたり」(青春出版社)等、多数。